ゼミ採用を振り返る

 毎年ある時期になると、「ゼミナールをどうしようか・・・」と学生たちがソワソワし始める。

より正確に言うと・・・・まず少数の学生がソワソワし始めて、先輩やら友人やらから「噂」をかき集め始めて、それから少しして、第一志望のゼミナールを検討し始め、大学からゼミ募集のビラが配られて説明会が開催される段になって、ようやく多数派が「どうしようか・・・」とソワソワし始める。

 

僕たち教員は、自らの講義や説明会の中で自らのゼミの魅力をアピールし、学生たちのエントリーを待つことになる。エントリーシートによって志望動機を確認し、エントリー数が多い場合にはGPAGrade Point Averageの略称で足切りをし、最後に個人面接によって学習意欲を確認する。人気ゼミには定員の3倍から4倍ものエントリーが殺到し、多くの人が第一志望に落ちるという憂き目にあう。

 

・・・・・このようにして、これから長きにわたって共に学ぶことになるメンバーが選抜されるわけだが、このやり方は僕が大学生だった15年前(おそらくそれよりも前)から、ほとんど変わらない。

日本中の大学のそこかしこで見られる風景なのだ。

 

僕はずっと、この「ほとんど変わらない」ことと、「そこかしこでみられる」ということが、気になっていた。多くの大学の多くのゼミにおいて、学生たちの動き方や教員側の採用方法が似ているということは、いったい何を意味するのだろうか。それが少なくとも15年の間も、ずっと変わらずに続いているということの意味は、いったい何か・・・・そんなことをモヤモヤと考えながらも、それに対してとことん考える時間もフレームワークもないままに、長い時間が経過してしまった。

 

この問題をおぼろげながらも理解できるようになったのは、人と組織が出会う「採用」という現象そのものの研究をするようになってからだ。

そして採用という現象を理解すればするほど、上記のような「ほとんど変わらない」ことと、「そこかしこでみられる」ことは、案外深刻な問題なのではないかと考えるようになった。端的に言うならば、「相互に似た採用を行うと、一部の人だけが優秀というラベルを貼られることになる」ということだ。このことをちょっと考えてみたい。

 

採用に限らず、人が人を「評価する」とき、私たちは同時に2つのことを行っている

 

1つは、「はかるmeasurement」ということ。

たとえば、学校でペーパーテストを使って成績評価をするとき、教員は、そのテストによって受験者の「理解度」とか「知識量」などを「はかって」いる。物差しをつかって「長さ」をはかるように、温度計を使って「暖かさ」をはかるように、テストを使って「理解度」やら「知識量」を「はかって」いるわけだ。

 

ただ、「評価する」ことにはもう1つ意味がある。

テストによる成績評価は、一方で、学生の「理解度」やら「知識量」やらをはかっているのだけれど、他方でそれは、優秀優秀でないといった形で、受験者を序列化することにもつながる。

「理解度」や「知識量」といった一定の基準で「評価」されるからこそ、受験者たちは「優秀である」ということになるわけで、「評価」の基準が違えば、今度は全く別の人が「優秀」になることだってありうる。

その意味で、「評価する」ということは、「価値を創り出す(value creation」ことでもある。これが2つ目の意味だ。

 

人が人を評価するという活動である以上、人材の採用にも全く同じことが言える。

エントリーシートによって志望動機を確認し、エントリー数が多い場合にはGPAで足切りをし、最後に個人面接によって学習意欲を確認するという行為は、

 

(1)高校から大学へのトランジションをスムーズにくぐり抜け、1、2年時にある程度高い意欲を持って学習をしてきた人(→したがってGPAが高い人)、

(2)1対1という対面の状況において自分を表現することの上手な人(→したがって面接巧者な人)

 

を「優秀な人」に、そうでない人を「優秀でない人」に仕立て上げる行為でもあるわけだ。

つまりゼミ選考において我々大学教員は、「優秀な学生を見抜くこと」をやりつつも、同時に、自らが行う採用によって優秀な人」を作り出す……ということに加担していることになる。

裏を返せば、(1’)なんらかの意味で大学へのトランジションに失敗し、1、2年次に学習意欲を持てなかった人(したがってGPAが低い人)、そして(2’)1対1という対面状況に弱い人(→したがって面接でうまく自分を表現できない人)は、今のゼミ採用システムの中では「優秀ではない」という烙印を押されていることになる。

まさに、「採用が優秀さを、作り出している」いるわけだ。

 

もちろん、上記のようなこれまで通りのゼミ採用そのものが悪いということでは決してない。GPAがなんらかの「優秀さ」を捉えていることは間違いないし、ゼミナールが教育機関である以上、学習意欲(個人の「能力そのもの」では決してないが・・・)を反映したそのスコアを使うことは、極めて真っ当ですらある。

 

ただ、すくなくとも、僕が考える優秀さ(つまり服部ゼミが作り出す優秀さ)は、そこにはないと考えている。

自分たちにとって優秀さとはいったい何を指すのか」「自分ゼミの採用は、学生たちのどんな優秀さを測るためのものであり、同時に自分たちは、その採用をすることよってどのような学生を『優秀である/優秀でない』とみなしてしまっているのか」・・・・1期生、2期生たちと一緒にそんなことを長い時間をかけて議論し、そして、3期生がとうとう、それを具体的な採用フローとして結実させてくれた。

 

「マルチパス採用」の具体的な内容については、是非ともこちらをご覧いただきたいが、この採用の重要性は、

(1)ゼミナールへの入り口が複数用意され、それぞれの入り口ごとに複数の「優秀さ」が想定されていること、

(2)そのためGPA+面接が創り出す「優秀さ」の基準においては「優秀でない」とされることになる人をも、「優秀である」として取り込むことができたこと、

(3)エントリーすること自体に、極めて高いハードルが課されるたえ、本当にこのゼミを志望する人以外が「自己選抜(教員側ではなく、エントリーする者自身が自ら自分をふさわしくないとして選抜すること)」されており、

(4)その結果、エントリー数が必要最低限に絞り込まれていること、にある。

 

もちろん、まだまだ課題はある。

全てが僕たちの意図した通りに推移したわけではないし、この採用が創り出す「優秀さ」の裏には、この採用が「優秀でない」とした者が存在することも忘れてはならない。

そしてもう一つ、この種の試みが、一度手を出したら二度と止まれない自走的な性格を持っていることも、僕たちは自覚している。新しい採用に挑戦し、「採用のイノベータ」の称号を得た企業が、容易にはもとの「普通」の採用に戻れないように、おそらく僕らはもう、もともとの採用には戻れない。それでいいのだ。そういう道を、自ら選んだのだ。

だから、採用は、だから人事は、楽しいのだ。

 

改めて、新しい採用に挑戦した3期生と、見事に選考をくぐり抜けた4期生に、敬意を表したい。