《その1》の補足です。《その1》では、カイヨワにならって、「遊び」を

(1)参加への「強制がない」という意味で自由であり、

(2)物理的時間的に、「日常から隔離」されており、
(3)多かれ少なかれ「未確定」な部分を残しており、
(4)本質的に「非生産的」であり(すくなくとも、何かを作り出すことを主目的としていないものであり)、
(5)とはいえ一定の、「特有の規則・ルールが支配」しているが、
(6)そのルールや結果が及ぶのは、「その遊びの範囲内のみ」であるような活動をさす、

 

・・・・・と定義しました。

 

 

ここでは、ヨハン・ホイジンガの「ホモ・ルーデンス」やロジェ・カイヨワの「遊びと人間」以降の研究をとりあげ、遊びの研究者がなにを考えてきたのかということを追いかけてみたいと思います。

研究はいろいろあるのですが、とりわけ注目しているのが、グレゴリー・ベイトソンやアーヴィング・ゴフマンの議論です。

彼らは「遊び」という「場」そのものに注目し、その場にいる者同士が行う相互作用の観点から考察しています。

 

たとえばベイトソンは、遊び」を相手の行う行動が何を意味するのかを解釈する「フレーム(解釈枠組み)」によって成立可能になるものと考えました。

例えば、戯れで「叩き合い」を行っている子供は、相手の行為が、通常の意味での「(攻撃するため、痛みつけるために)叩く」という意図をもったものではないということを理解しています。

だから、友達の「攻撃」を本気でかわし、警察に逃げ込む・・・・なんてことは誰もしないわけです。

 

しかし同時に、この子供は、相手の「叩く」という行為が、日常的な意味での「叩く」という行為を模したものであること、もし日常でそれが行われるならば、それはとても深刻な事態であることをも、同時に理解している。

つまり「叩き合い」で遊ぶ子供たちは、お互いに相手の行為が

(1)日常的な意味での「叩く」という行為とは違ったものであることと

(2)とはいえそれは、あくまで「(攻撃する意図、痛みつける意図を持たないとはいえ)叩き」という行為ではあることを

同時に理解してことになります。

 

これは大人の遊びについても当てはまるでしょう。

たとえば私たちが野球観戦にのめり込むのは、

(1)その試合が(実生活に対して実質的な影響を与えるような)本当の戦いではないことを理解しつつ、

同時に、

(2)これが一種の戦いであるということを、同時に理解しているからなのです。

 

ベイトソンは、遊びの本質的を、(「叩く行為」のように)相手の行為が持つメッセージが、 (1)通常通りの意味を持たないという解釈(=非真面目性)と、(2)とはいえ、それがメッセージ本来の意味をも持ち合わせているという解釈(=真面目性)という、抽象度の違う2つのレベルにおいて同時に成立し、それらの間に矛盾が知覚されない、という点に見出したわけです。

 

・・・・ちょっと難しい話かもしれませんが、とても重要な指摘であったと僕は思います。

 

社会学者のご不満もまた、同様の議論を行っています。

ゴフマンもまた、カイヨワなどと同様に、遊びの本質が「楽しみ」や「歓喜」にあるとした上で、それを保持するためには、「遊びの二重の主題」が重要になると主張します。

たとえば、演劇が日常生活における切実な問題を取り上げたリアルすぎるものであると、それは観客にとっても、演者にとっても苦痛でしかなくなります。

演者が舞台上で本当に痛みつけられたり、流血するのを見て、そこに「楽しみ」を見出す観客はほとんどいないわけです(よほどのサディストでもない限り・・・・)。

ゴフマンの言葉でいえば、遊びが遊びであるためには、外部に関連した感情がそこに流入するのを制御する膜が維持されていなくてはならない・・・・のです。

 

しかし他方で、遊びは外の世界から全く切り離されてしまってはなりません

演劇の面白さは、舞台上で起こる悲劇や歓喜に多少なりともリアリティを感じ取るからこそ起こるのですが、そのリアリティは舞台上での悲劇や歓喜から実生活における悲劇や歓喜が想起されることで成立するのです。

同様に、スポーツにおいて人々が「優れている」ことを目指すのは、それが腕力、知識量、勇気など、実世界における価値と多少なりとも結びつけられるからなのです。

 

つまり、遊びの世界は、その世界からある程度独立したものでなければならないが、同時に、外の世界がある程度持ち込まれていなくてもならないのであるという意味で、「二重の主題」を持っているのであり、これがゴフマンのいう「遊びの二重の主題」である。

 

 

・・・・・ベイトソンもゴフマンも、基本的には同じことを言っていると思います。

つまり、あえて簡略化していくならば、遊びが遊びとして成立するためには、「真面目」な世界から切り離された空間の中に、「真面目」な世界がちらほらを見え隠れする・・・・という絶妙なバランスが必要になるわけです。

日常の中で「遊ぶ」とき、私たちは、この絶妙なバランスを、特に意識することなく保ち、真面目さと不真面目さの境界の行き来を楽しんでいるのです。

 

僕の関心は、《その1》で書いたように、採用活動に「遊び」が持ち込まれるときにこのバランスがどのように崩れるのか、あるいはバランスがどのように変化するのか、そしてそのことが、渦中にある求職者と採用担当者になにをもたらすのか、ということです。