スター不在の経営学はどこへ向かうか?


人々が起業する1つの理由に、「成功者への憧れ」というのがあるようです。

自分が生み出した製品やサービスを世に問うて、それが受け入れられて、その対価として、高級マンションと綺麗な服と、カッコイイ車を手にする・・・。


「そういうのって俗っぽい!」と否定する人もいるでしょうが、僕は、こういう「純粋な(あえてこう言います)」動機をもった人が、嫌いじゃないです、いや、むしろ好きです。。

研究者の世界、少なくとも経営学の世界でも、こういう「憧れ」であったり、誰かに「魅せられる」といったことが(かならずしも、お金やマンションや車ではないかもしれないけれど)、優秀な学生を集める上でとても大事な機能を果たしているように思います。

少なくとも、これまでは機能していたと思います。


経営学の場合、僕達よりも結構上の世代に、いわゆるスター教員がたくさんおられ、彼(女)らに魅せられて、若い学生たちが全国から集まってくる、という状況が長いこと続いていました。

スター教員たちの「凄さ」は、彼(女)らが超一流の研究者であると同時に、超一流の「伝道者」(僕自身の言葉を使えば、知識の「普及者」)でもあったという点にある、と僕は考えています。

自らの研究成果をジャーナル論文や学術書として出版するだけでなくて、大学の講義やビジネススクールの教壇、ビジネス書や新書、講演会や新聞記事などを通じて、日本のビジネスパーソンに普及させる役割を担ってきた、ということですね。

学会における「アカデミック・スター(僕の造語です)」である彼(女)らは、同時に、ビジネス界の議論をリードする「オピニオンリーダー」でもあった、といえばわかりやすいでしょうか。


・・・では、これからの世代、つまり僕たちの世代はどうか?

これから経営学は「スーパースター不在の時代」に入る、と僕は考えています。

少なくとも、このままいくと、そうなると思います。


その理由をていねいに書き出すと長くなるので我慢しますが、簡単にいえば

学問の細分化と、

ジャーナル志向

の2つにあると考えています。


「経営学のトピックがあまりに細分化されてしまって、すべての分野を理解したうえで、発言をすることのできる研究者が少なくなる」というのが1つめの細分化問題、

そして、「研究成果を専門ジャーナル上で報告することによって研究者が評価される、という傾向が強まると、研究者が実践家に対して知識を『普及』するインセンティブをもたなくなる」というのが、2つめのジャーナル志向問題です。


そして・・・

このように「細分化」され「ジャーナル化」された経営学の世界では、特定の領域において多数の業績をあげる「アカデミック・スター」は存在しても、「オピニオン・リーダー」あるいは、その2つをともに体現する「スーパー・スター」は存在し得なくなるのではないか、というのが僕の予想です。

こうした事態こそ、上で書いた「スーパースター不在の時代」というやつです。


・・・・・念のためフォローしておきますが、僕自身は、「学問の細分化」や「ジャーナル志向」そのものを否定しているわけではないし、悲観しているわけでもありません。

「学問が細分化」することで、僕たちが使うことのできる理論やデータ解析手法はますます洗練されたモノにしていくだろうし、それはまた、これまで見過ごされてきたさまざまなテーマが、科学的研究の対象になったということでもあります。

学問の細分化は、我々が手にする知識の量の拡大の裏返しなわけです。

そして、だからこそ、そうやって生み出される大量の知識の質を担保する、専門ジャーナル(レフェリーシステム)の役割は、依然として大きいと思います。


さらに重要なのは、こうした「変化」によって、少数のスーパースターによってではなく、多数の、普通の研究者たち(というと怒られそうですが、私自身もそこに含まれているので許していただきたい)によって、知識が生み出される時代が到来する、ということです。

僕はこれを、MITのフォン・ヒッペルの言葉をもじって、「経営学の知識生産における『民主化の時代』と呼んでいます。

「民主化の時代」にあっては、これまで知識の生産を行ってきた少数のスーパースターに代わって、多数の(そこそこの)研究者が、それぞれ、知識の生産を行うことになる

・・・・・これはこれで歓迎すべき事態だと、僕は思っています。


ただ、僕が懸念しているのは、「民主化」された知識の生産システムは、「知識の生産効率」という点では非常に優れたものである一方で、①「知識の統合・整理」と、②「知識の普及」という2つの点で、非常に脆弱なのではないか、ということです。

「民主化」の時代にあっては、日々生産される膨大な知識をまとめあげ、それをビジネスパーソンへと普及させる役割、つまりこれまで少数のスーパースターたちが担ってきた、「オピニオン・リーダー」の役割を、誰も担わなくなる、とうことです。

その理由は、経営学の「民主化」をもたらした理由そのもの(①学問の細分化と、②ジャーナル志向)の中にあると思います。


上で書いたように、経営学が細分化して、全体としての知識量が膨大になると、一人の研究者が全ての知識を持ち合わせることが難しくなります(細分化問題)。

しかも、「ジャーナル化」が進むにつれて、知識の統合と普及を行うインセンティブを、研究者が持たなくなっていくでしょう(ジャーナル化問題)。

能力の面でも、動機の面でも、研究者が「オピニオン・リーダー」の役割を担わ(え)なくなっていくというのが、「民主化」の特徴だと思うのです。


では、「民主化」時代にあって、経営学の知見を統合・整理する機能、そして知識をビジネスパーソンへと普及する機能を、誰が果たすのか?

なんていうことのない結論に思えるかもしれませんが、まずは、個々の研究者なのだと思います。

自分の生み出した知識に、責任を持って、普及する義務を負うのは、まずもって研究者なのだと思います。


そしてもう1つ、これから重要になるのが、研究者と実践とをつなぐ役割を果たすアクター(こういう人たちを「文化仲介者」と呼びます)。

メディアの世界、コンサルティングの世界にあって、自らは知識の生産を行わないけれども、生産されてくる知識に対しては高い関心を持ち、それを実践家に語る能力と動機を強く持っている人たち

・・・・・がこれにあたります。


ますます細分化される今日の経営学においては、この2者が共同して、場合によっては競合して、知識の正当性を社会に対して示していくしかないのです。

そうしないと、社会科学は忘れ去られていく・・・・とすら思っています。


もちろん、こうしたシステムの実現はそう簡単ではありません。

そのためには、「知識が普及すること」「(新しい知識を生み出すことだけでなく)知識と統合すること」「知識を普及させること」そのものに、研究者の目が向くような仕組み、インセンティブ設計をする必要があるかもしれません。

僕が、最近、「経営学の普及」なんていう研究をしているのは、まさにそのためです。


「スター不在」の時代。

これが経営学の衰退の第一歩になるのか、あるいは飛躍の好機となるのか。

それは、僕たち次世代の研究者にかかっているのだと思います。


・・・・・皆さんはどう思われるでしょうか??