僕はなぜ「採用学」と言わなければならなかったのか

 

「なぜ「採用学」だったのか」

・・・・この質問を、この2年ほどの間に何度されたかわかりません。この質問は大きく、

(1)なぜ、いろいろある中で「採用」を研究分野に選んだのか、そして

(2)採用の研究をするにしても、なぜ既存の欧米の研究者がいうような面接研究とか、適性検査研究ではなく、「採用学」などというたいそうな名前を使ったのか、

という2重の意味があると思います。

 

(1)については、比較的簡単に答えることができます。

端的に言えば、それは、「組織と人の関係性に関わる多くの問題が、採用段階において起こっているいると考えたこと、にもかかわらず、欧米においてはともかく、日本においては採用に関わる研究があまりにも少ないと思ったこと」です。

「では、なぜ組織と人なのか」と突っ込まれる場合もあるのですが、それに対する答えも明確にあります。

一言で言えば「それに興味があったから」、もう少し丁寧にいうならば、「人生において、自分が最も不可解なこと、あるいは苦手なことがそれだったから」ということになるでしょうか。

僕はいわゆる「官僚」とか「役人」といわれる職業の家系に生まれ、父や祖父は「うん万人」という巨大組織の中で自分なりの道を切り開き、40年近くもの間、天下国家に関わる天文学的な予算のプロジェクトを動かす・・・という人生を送ってきました。

幼い頃からそれを目の当たりにしてきたわけですが、中でもとりわけ印象に残っているのが、小学校の頃の祖父とのやりとりです。

 

「おじいちゃんの会社って大きいの?何人くらい?」

 

という僕の質問に、祖父は首を傾げながら、

 

「さあ、何人くらいだろうね。考えたこともないな。10万人かな、もっと多いかな。」

 

といって笑ったものです。

子供ながらに、「めまい」がする思いがしたことを覚えています。

 

巨大な組織の中を颯爽と歩く父なり祖父の姿は、幼い僕にとって、尊敬の対象でもあり、同時に不思議で仕方のないものでもありました。

そんな大きな組織の中にいて、怖くないのか・・・と。

やがて大人になり、そうした曖昧で根拠のない恐怖感は克服されていくわけですが、同時に、自分はそうした人生を歩むことができない人間であること、少なくとも、そういう人生を求めていない人間であることが、自分の中で明確になっていきました。

「人は好きだが、組織は嫌いだ」というのが僕の口癖なのですが、それはおそらく、こうした生い立ちと深く関わっているのではないかと思います。

 

そういう意味で、今から思えば、研究者の道を選んだこと、そして「組織と人の関わり合い」を研究テーマとして選びとったことは、僕にとってごくごく自然なことだったように思います。

苦手だからこそ、思い切りひいたアングルから、それを徹底的にながめてみたかった・・・といえば、少し格好良すぎるでしょうか。

 

・・・・とにかく、それがこのテーマを選んだ理由であり、(1)の質問への答えになります。

 

次に(2)の質問。

「採用学」という名称をもちいて、世に打ち出した時、大きく分けて2つの反応をいただきました。

「採用学?面白そうだね!!新しいね!!」というのが1つ、

「なんでもかんでも”学”ってつければいいもんじゃないよ。節操がないな君は!」

というのがもう1つの反応でした(もちろん、面と向かってそういう人はほとんどいませんでしたが)。

 

後者の意見は、主として学者コミュニティ内部からのもので、メンタルの強い僕も(笑)少なからず傷ついたし、採用学という看板をおろそうかと思ったこともありました。

ただ、僕自身も学者の一人なので、そういう反応が理解できないことはないのです。

というか、むしろ、それは至極まっとうな反応だったとすら思うのです。

たしかに、何でもかんでも「学」ってつければいいってもんじゃない。

 

・・・・・でも、それでも僕は「採用学」と言いたかった。

というよりも、その言葉を使わずにはいられなかった。

 

そこらへんの事情については、実はこれまで、明確語ったことがありませんでした。

「採用学」という言葉は、もともと僕の研究に対して某大手メディアが与えてくれたラベルなのですが、僕はなぜそのラベルに飛びつき、しがみついているのか。

取材用に「タテマエ」の回答を示したり、それらしい言葉で煙に巻くことはあっても、正面から答えることはあえてしてきませんでした。

そもそも話が込み入っているということもありますが、いままでは、それを説明するだけのボキャブラリーを持たなかったから・・・というのが正直な所です。

 

しかし、ここ数週間の間に、アメリカの哲学者であるチャールズ・サンダーズ・パース、ウィリアム・ジェームズ、そしてジョン・デューイによる「プラグマティズム」の哲学にふれたことで、それを語るボキャブラリーを手にしたという実感を持つことができました。

・・・まだまだ拙い言葉ではありますが、今の僕にできる範囲の中で、語る努力をしてみたいと思います。

 

まず「プラグマティズム」の思想について、簡単に説明をしておきましょう。

プラグマティズムの考え方を、ごく簡単に要約すれば・・・・・

 

何かについて考えるときは、常に、それがどのように役立つのかということだけを考えなければならない。それ以外のことを考えることは、全くもって意味のないことだ。」

 

ということになると思います。

このように書くと、「何を当たり前のことを。何かをやるときに、目的や意味を考えるのは、当たり前のことではないか」という反応が返ってきそうですが・・・・・

実は、現在の社会、現在の組織、現在の研究者コミュニティは、以外とこの「当たり前」ができていないのです。

プラグマティストたちが指摘したのも、まさにこの点でした。

 

パース、ジェームズ、そしてデューイらが「プラグマティズム運動」を始めた1870年から1900年代初めにかけて、哲学にせよ政治学にせよ何にせよ、学問の中心は圧倒的に西洋にありました。

かつて、すべての学問がギリシア哲学のなかに包含されていた(というよりも、学問がまだ未分化であった)時代には、いまでいう政治学も、哲学も、法学も、すべてが「善く生きる」という目的のもとに営まれ、すべての学問がその目的によって結び付けられていました。

 

ただ学問というものは、総じて、時代を下るに従ってどんどん専門化され、細分化され、それぞれがそれぞれの目標を目指すようになっていくもので、哲学の世界でも、まさにそれが起こったのです。

哲学者の中に、正義、認識、存在など多様な問題を論じる者が現れ、それぞれがそれぞれの問題意識、課題意識の中で研究をし、それぞれの問題意識、課題意識の中で主張をしはじめる。

やがて学問はもともとの大きな目的から離れ、研究者たちは、個別の課題(政治のあり方を問うことであり、正義を理解することであり)に専念するようになっていく

それらは本来、「善く生きる」という目的を達成するための1つの手段でしかなかったにもかかわらず、です。

そしていつしか、その個別の課題こそが、学問の究極の目的であるかのような錯覚に、ヨーロッパの学問全体が陥っていったのです。

社会学では、こうした事態を、「目的の置換」とか「目的の転移」などと呼びます。

 

こうした事態を憂い、学問のありかたそのものの再構築を目指したのが、上記のプラグマティストたちだったのです。

西洋から遠くはなれた、新大陸に生まれたアメリカの哲学者たちがこれを主導したのは、決して偶然ではなかったでしょう。

これが、プラグマティズム誕生の背景です。

 

それからおよそ100年たったの現在、これと全く同じような現象が、経営学や経済学をはじめとする社会科学の世界でも起こっているように思います。

この100年ほどの間、社会科学は、理論的にも方法的にも、恐ろしいほどのスピードで深化してきました。

英文ジャーナルには、日々(話にすれば毎分毎秒)おびただしい数の研究論文が掲載されるので、その研究蓄積の幅と深さは、もはや一人の研究者の頭のなかにおさまりきるものでは無くなっています。

たとえば経営学の場合、人事に関わる研究だけでも、採用、育成、女性活躍、ワークライフバランス・・・などなどさまざまなテーマに分岐しており、その中のたったひとつの分野である「採用」だけをとっても、「より良い面接とは何か」を探求しているインタビュー研究者、「精度の高い適性検査の条件」を模索するテスト研究者、「求職者の意思決定メカニズム」にせまる研究者・・・・という具体に、実に様々な研究者群が存在し、それぞれが独立に、お互いに交流をすることもなく研究を推し進めているのです。

 

細分化は、知識の生産効率などの点で良い面もある一方で(他の領域を気にせず、自らの狭い領域のなかで文献をレビューし、研究し、その領域の研究者に認められれば良いわけなので)、知識の生産を行っている当の研究者ですら、自らが行っている研究が採用に関わる研究全体の中で、さらには経営学全体の中でどういう意味を持つのか、といったことをきわめて分かりにくくなるという側面もあります。

もっといえば、そんなことを考えなくても研究ができてしまうことが、細分化された科学の問題なのだと思います。

その領域で研究をしている研究者にしてこういう状態ですから、ビジネスパーソンにとっては、「どこにどんな知識があるのかさっぱりわからん」状態なのではないでしょうか。

 

かつての哲学がそうであったように、経済学や経営学にも、本来、その学問にかされた大きな目的なり使命なりがあったはずです。

経済学であれば、世の中をおさめ諸国民をたすける(経世済民)ことが、

経営学であれば、一人では成し遂げられないことを他者との協働を通じて達成するためのあり方を探求することが、目的であったはずです。

さらにいえば、経済学や経営学が属する社会科学自体にも、科学をつうじて人間が構成する社会を、より良きものにしていく、という目的があったのではないでしょうか。

 

こうした目的が「正しい」かどうかということについて、残念ながら、プラグマティズムの思想の中に答えはありません。

彼らが主張しているのは、可能な限り、崇高で、良心にかけて正当化されうる目的を掲げられているか、まずそのことを自らに問うこと自体が重要であり、その努力をした上で、今自分がやっているそのこと(研究)が、その目的を達するために本当に役立つものなのかどうかを真剣に考える態度こそが大事だ・・・・ということなのです。

したがってここで重要なのは、かくも細分化が進んだ現在の経営学者の中に、いったいどれだけの人が、「そもそも自分の研究は、何を目的としたものなのだろうか」という大きな目的を意識して研究を行っているのか、ということです。

残念ながら、多くの研究者が「目的の転移」を起こしてしまっているのではないか、が僕の観察です。

かく言う僕も、決して例外ではなかったのです。

 

・・・・・少し長くなりすぎましたのでそろそろ終わりにしたいと思います。

以上、プラグマティズムの考え方を僕なりに咀嚼したうえで、採用に関わる研究の現状を言い換えるならば、こうなります。

 

社会科学の深化は研究分野の細分化を必然的に伴うものであり、その意味で、採用に関わる研究が「局地戦」になっていくのはある程度仕方のないことだ。

面接の研究をしている人は「良い面接とは何か」を問い、求職者の意思決定の研究に興味がある人は「求職者の意思決定メカニズムとは一体どのようなものか」と問う

・・・・そうしたこと自体は、ある程度避けられないことなのかもしれない。

ただ、(かりに1つ1つの研究が局地戦になったとしても)自分がどのような大きな目的に向かって研究をしているのか、自らの研究は結局のところ社会に対して何をもたらすためのものなのか、ということ自体は、決して見失ってはならない。

 

面接の研究や適性検査の研究や求職者の意思決定の研究は、いずれも「他者との協働を通じていかに成し遂げるかを探求する」という経営学の使命を果たすために存在しているのだし、さらにいえば、「科学をつうじて人間が構成する社会を、より良きものにしていく」という社会科学の大きな使命のもとで、はじめて存在しうるはずだ。

面接の研究や、適性検査の研究や、求職者の意思決定の研究は、採用の観点から、社会科学の大きな使命に貢献することを最終的な目的として行われるべきだ、と言い換えてもいい。

だから僕は、「面接研究」とも「適性検査研究」とも「意思決定研究」とも言いたくなかった。

その代わりに僕は「採用学」という言葉を使った・・・・というよりも、使わずにはいられなかった。

 

 

 最後になりますが・・・・・

研究者にできること、まして「採用学」の研究者にできることは、本当に限られています。

でも採用を科学することから社会を良くすることはできると思います。

 ほんの少しでしょうけれど。